月刊「味の味」2002年5月号に掲載された一文です。

時は流れ、人が移ろい、そして町もまた変貌する。そんな当たり前のことすらこの町は飲み込んでしまうのかもしれない。五百年の時を経てもなお、この町は独特の有り様を持ち続ける……曖昧の町金沢。
金沢は北陸の古都などと呼ばれる事があるが、これは大きな誤りである。その歴史で金沢が都であったことは無く、天正十一年(一五八三年)前田利家が七尾から金沢に入城した時から始まる四百年あまりの武家文化の町として捉えられる。そんな百万石の城下町のイメージが強い金沢だが忘れてはならない、もうひとつの顔がある。それは利家入城以前の百年あまり、一向衆が尾山御坊を中心に支配した宗教都市としての歴史である。民衆が支えた自治都市金沢の姿を忘れるわけにはいかない。宗教が支配する自治都市金沢(尾山)をいかに治めるかが、戦国大名前田に課せられた大きな命題であった。一向宗にとって仏敵とも云える織田方の前田である。

凄惨なまでの対立があってしかるべき状況に、前田は巧妙な懐柔策に出たのである。そのひとつの表れが城下に集められた浄土真宗の寺院に見ることが出来る。排斥して然るべき浄土真宗寺院を城下に取り込むことにより、また人をも取り込んだのである。黒白をつけることなく、曖昧に事を進める、きわめて日本的な手法により寺内町から城下町への変貌を遂げたのである。そして現代に至るまで、東・西両別院を中心にした宗教都市、言い換えれば民衆の町としての性格を合せ持つのが金沢なのである。
金沢城、兼六園、成巽閣等に代表される百万石の栄華を楽しむのも金沢なら、営々と培われた庶民の暮らしを楽しむのもまた金沢である。
戦後、多くの日本の都市が、瞬く間にその町の有り様を失ってしまった中で、金沢はその町の歴史的な背景を色濃く残している数少ない町といえる。

この町の曖昧さはお天気にもよく現れている。降るのか晴れるのか、「弁当忘れても傘忘れるな」と云われるほどに変わりやすいお天気。さっと陽がさしても、その空気はしっとりとした湿り気を含んでいる。このきわめて厄介で曖昧な空気は、この町に暮す人々の心の持ちようにも深く関わっているようだ。
町の佇まいにもそれは現れている。京の町で道を問えば、何条上ル下ルとそれは明解に返ってくるが、ここ金沢では、この筋を道なりに、広見を右へ、ちょっと狭くなった辻を左へと云った案配である。町の作り自体が実に曖昧なのである。まっすぐ進もうと思ってもこの町本来の道はそれを許さない。微妙に曲がった道や袋小路が、本来の目的である「そこへ行く」と云う行為を曖昧にし、移動自体を楽しんでしまわせるのが金沢の道なのである。

その地理的・歴史的な要因も大であるが金沢の味にも、その曖昧さは遺憾なく発揮されている。関西風か関東風かと問われれば、それは関西風と云えるのかもしれない。しかし献立やしつらえに京風のあしらいが感じられても何処かが違う。金沢ならではの恵まれた素材も多分に影響しているのだろうが、素材自体のボリューム感や切れと武家風の豪快さが加わる。
また庶民の味でその端的な例を見ることが出来る。金沢で麺と云えばそれはうどん。東京で言うところの「蕎麦屋」は「うどん屋」、蕎麦よりうどんの土地柄なのである。一般に薄い色の出し汁で関西風と見られがちな金沢のうどんだが、みりんの効いた甘めの味付けや腰の弱い麺は関西風のそれとは明らかに違うのである。

そのうどん屋で尤もポピュラーな味が「いなりうどん」。関西風の「きつね」ではなく「いなりうどん」なのである。短冊切りの薄揚とねぎ、柔らかな麺にだしの味が上手く絡んだ金沢のうどんである。けっして名物と取り上げられる食べ物ではないだけに、この軟弱なうどんに金沢を見る思いがする。日常の庶民の味の中に、名物でもなく関西風でも関東風でもない曖昧なうどん。一番侵食されやすい日常の味が、曖昧な頑固さで残る町が金沢なのである。
残念なことに、そんな金沢でも近年は駅前を

中心に真っ直ぐな道に高層ビルという、標準的地方都市の様が見受けられるようになった。もしあなたが本当に金沢を楽しみたいと思うなら、大通りを外れ裏町を歩かれることをお勧めする。そこは曖昧の町金沢、迷いながら町をさまよえば、庶民の暮らしの中に息づく金沢が見えてくるはず。茶舗が煎る焙茶の香に町の空気を楽しみ、菓子屋の店先に雅を感じる。市場で庶民の逞しさにふれ、裏路地に沿って流れる用水や、軒先が触れ合いそうな民家の佇まいに、歴史を感じる事が出来るはずである。
そう此処は、曖昧の町金沢。地図など持たず五感で味わう町なのだから。